MENU

酒樽 菰巻きのはじまり

「菰巻きを始めて知った!」

と、いう人も多いのではないでしょうか。

そもそも「菰巻き」とは?

それよりも → 何て読む?

・・・そんな声が聞こえてきそうです。

ココで説明する菰巻き(こもまき)は、酒樽に巻く「菰巻き」です。

結婚式やお祝い事で使われる「鏡開き(かがみびらき)」で目にする 酒樽に巻かれた酒銘柄が入ったものがそうです。

の昔・・・

お酒は全部「樽酒」だったんですね。

お酒は酒樽に詰められて運ばれ 販売 されていました。

酒樽は四斗樽(よんとだる)のみでした。一升瓶40本分 容量72L 約90kg

ばれた四斗樽は、酒屋の軒下で量り売りされ 町人は徳利(とっくり)を持って買っていたのが当時のスタイル。時代劇では、浪人が貧乏徳利を持っているのが印象的。大名屋敷や商家では、酒樽そのまま運ばれていたようです。

樽には、地元用と遠方用がありました。

地元用には 地廻りもの として酒樽に直接銘柄など墨筆されていました。遠方用は今でいう県外出荷品といった形で 酒樽は保護 され出荷されていたのです。

保護の役目を担っていたのが「菰」ということになります。

酒樽を保護する 緩衝材(かんしょうざい)の役割がはじまりなのです。

菰は、稲藁(いねわら)で編まれたもので、ゴザやムシロの様に敷くものに対して、菰は巻くという目的で使われています。

はじまりは 江戸時代

東京の中央区には江戸のローマというぐらい近世の遺物がたくさん発掘されています。流通の拠点である河岸が集中し、経済活動の盛んだった土地所以だったのです。なかでもよく掘りだされるのが「酒器」で江戸っ子がいかに酒好きだったがわかります。日本橋の大通りでは日中から屋台で酒が売られていたそうです。

一説のよると江戸の初期、市中で消費される酒の量は四斗で年間64万樽ほど、文化文政の1800年代には、およそ3倍の180万樽に上った。単純計算で子供を含む江戸の住民全員が2合ほどの酒を毎日飲んでいたことになるらしい。

当時、江戸で好まれていたのは、灘や伊丹、伏見など上方から届く「下り酒」だった。

関東近郊や東海道筋の「地廻り」と呼ぶやや濁った酒に比べて、圧倒的な人気を誇った上方の清酒。

上方の酒は「樽廻船(たるかいせん)」で運ばれた。

樽廻船はその名の通り、酒樽のみを積んだ船で、主に西宮から新川(隅田川)まで運んだ。(新川に酒問屋が多いのはこういった歴史の背景がある)

印菰が登場

廻船を利用して上方から江戸へ酒樽を運ぶ際に、潮を被って品質が悪化することと、衝突による破損を防ぐための緩衝材として、菰に包んで船に積み込まれた。そして積荷が混同しないように菰には蔵元の家紋や屋号が 墨書きや焼印 で入れられた。

・・・これが印菰樽の始まりである。

いろんな荷物を運ぶ菱垣廻船(ひがきかいせん)は30日かかるところ、樽廻船は約10日で到達できたという。これによって、品質の良い状態で日本酒を運ぶことが可能になった。また、この10日ほどという時間が実によく、酒に杉の香りが付く「木香(きが)」が絶妙のバランスで、わざわざ船に乗せて5日ほどで引き返して木香を楽しんだという史記も残っている。

樽廻船の出現と幕府の緩和政策により伊丹・灘を中心とする上方の銘醸地では江戸への出荷が益々盛んとなり、文化・文政期には江戸に運ばれた酒樽は年間で100万丁を超えた。記録を見ると文政期の印菰樽には、髭文字(ひげもじ)で銘柄が記され、背景に絵が描かれています。推測ですが、現在の化粧菰樽と共通していることから、この頃には宣伝を目的として化粧した菰樽が作られたと考えます。

樽が運搬の主役になったこと、関西で醸造技術が発達したこと、江戸へ船で廻漕するために緩衝材と目印が必要になったこと、さらに木香の魅力や蔵元と問屋の販促戦略など、多くの要素が合わさったことで、化粧菰樽は生み出されたのです。

さいごに

お酒の容器として瓶や紙パック、アルミ缶など様々なものがありますが、それ以前は酒樽しかありませんでした。酒造りの殿(しんがり)、最後の工程「酒樽に詰めて菰を巻く」まで「日本伝統産業酒造り」なのです。

現在、全国にある蔵元の中でも 樽巻き職人がいる蔵は非常に少なくなりました。また、菰巻きにおいては隠れた存在で、蔵人においても 蔵開きや酒祭り といった時に、はじめて見るほど希少なものとなっています。

江戸時代から継承されている菰巻きの技で、古(いにしえ)の時を感じてください。

                                ・・・乾杯!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次