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清酒発祥地 は何処?

「清酒発祥の地」を主張している箇所は2か所あるのです!

“ココが清酒発祥の地”だ!と声を張り上げているかどうかはともかくとして、ぞれぞれに主張する ゆかりの地 として案内したいと思います。清酒発祥の地として思い浮かべる事ができるのは、灘や伏見そして新潟などのような「酒処」と言われる場所を考えられそうですが「清酒発祥の地」と言われる場所はそうじゃないのです。

2か所の地名は、奈良市と伊丹市。どちらも「清酒発祥の地」と書かれた石碑も建てられており、日本酒で乾杯することを奨励する乾杯条例も制定されるなどお互いにライバル感がにじみ出ています。では何故この2つの地域が清酒発祥の地として意見が分かれたままなのでしょうか。

奈良市:

奈良市には正暦寺(しょうらくじ)と言われるお寺があります。この正暦寺は、仕込みを3回に分けて行う「三段仕込み」や麹と掛米の両方に白米を使用する「諸白(もろはく)造り」、また腐敗を防ぐための火入れ(加熱殺菌)作業を行うなど、近代醸造法の基礎となる酒造技術が確立された場所として有名です。また酒税として「銀300貫目」を上納した記録が残っているそうですが、この金額は現在価格に換算すると3億円に相当するそうです。それほどお酒が売れていたということになります。

伊丹市:

伊丹氏は、酒造りや海運で富を築いた江戸期の豪商・鴻池家発祥の地であります。1600年前後、豪商、鴻池家の始祖に当たる人物が にごり酒 の樽に誤って灰を落とした際に酒が澄み、これが 清酒=すみ酒 の誕生だとしています。濾過(ろか)技術が偶然の産物として生まれ、それまで濃厚な甘口のお酒とは違う辛口のお酒になったという説があります。

どちらが「清酒発祥の地」なのか、お互いの主張から目が離せませんが、日本酒好きならこういった話にも肴として飲むのも良いかもです。

互いに「清酒発祥の地」として主張し続ける奈良市と伊丹市ですが、実は大変仲はいいのです。奈良市の正歴寺本堂が大雪で大きな被害を受け修復には約3000万円が必要とした時、伊丹市の蔵元や居酒屋店主らで作る伊丹酒蔵通り協議会が募金活動を始め、この募金によって集めたお金で正歴寺の修復代をカバーした経緯もあるほどです。

伊丹酒蔵通り協議会事務局長は「切磋琢磨して日本酒ブームを起したィと考えている。ぜひ元気を取り戻してほしい」と応援しています。ライバルといえども日本酒ブームを盛り上げる同じ仲間として両市の関係がとても良好であるということが伺えます。

清酒発祥の地「伊丹」から広がった近代的な日本酒

大阪府池田市から流れる猪名川(いながわ)を下った処が「伊丹」。かっては多くの酒蔵があった伊丹郷町。戦国武将、荒木村重の居城があった場所として有名。伊丹は荒木氏没落後、豊臣秀吉の直轄領になるなどを経て、1669年(寛文9年)には近衛家の領地をなりました。その庇護のもとに酒造が繁栄します。江戸時代の豪商・鴻池家を生み出した現在の伊丹市鴻池は「清酒発祥の地」として有名です。現在の伊丹市鴻池は川の流域から少し離れた住宅地ですが、その中にひっそりと「清酒発祥の地」の石碑が建てられています。

戦国武将、山中鹿之助の長男だった鴻池直又は、一家が没落ののち武士を辞め伊丹で酒造業を始めます。馬による輸送手段を用いて造った酒を江戸へと送りだしていました。これが「下り酒」のルーツであり元祖とされています。伊丹の清酒発祥の地の意味は、単に「澄み酒」「諸白(もろはく)の発見」だけでなく、より近代的な清酒業の発祥とみるべきではないでしょうか。

清酒発祥の地として並び立つ「伊丹」と「奈良」

清酒発祥の地として伊丹は奈良と、ライバル関係にあります。諸白の酒として「南都諸白」と「伊丹諸白」があり「どちらが元祖の清酒発祥なのか」。何を持って清酒と定義付けるのか?と、いろいろと議論が尽きない問題は時代的には奈良の酒造り、技術が下ってきて伊丹に広がったということは間違いないようです。

ここで、それぞれの諸白(麹米・掛米とも白米で仕込んだお酒)の相違点を深堀りしたいと思います。

「南都諸白」

正歴寺など寺院で造られた。僧坊酒として増侶などが酒造りに従事し、菩提配という酒母で仕込まれるもの。

「伊丹諸白」

鴻池家など酒造業を営む商人によって造られた。

摂津北部地域の酒造りの技術者や丹波杜氏ら酒造りの職人集団が従事し、生酛造りが特徴。

大まかに分類するなら、奈良の酒はお坊さんの酒、伊丹の酒は商人の酒、という感じになります。それまで、お寺や神社の行事など特別な機会で飲まれたお酒が、いよいよ庶民の日常に広がってきたという時代の変化を見出すことが感じられます。

清酒の製造技術の進歩・量産化を促進した担い手は、伊丹の商人です。近衛家の領地になり、御所や将軍家公認の伊丹酒というブランドイメージで江戸庶民の支持を獲得し、猪名川流域の運搬力、輸送技術をもって下り酒の販売ルートを確立しました。そして丹波杜氏という酒造りの専門技術集団の労働力を駆使しながら、日本全国に清酒を行き渡らせたのが「伊丹酒」なのです。

馬によって運ばれていた酒樽を船に積み替え江戸に運んでいたという駄六川。名前の由来は、6駄文つまり馬6頭に4斗樽12丁を高瀬船に載せていたことになると言われています。

江戸時代初めの頃、酒造業における主導的地位を収めていたのは、奈良の寺院などで造られる南都諸白でした。1695年(元禄8年)に書かれた「本朝食鑑」をみると「近代酒の絶美なるを呼んで、諸白という。諸は庶なり、白は白状・白麹をもってこれを改めるに故に名づく」とあります。なかでも南都諸白が銘酒中の第一で、伊丹、鴻池、池田、富田の摂津年間であっという間にその地位は逆転します。なかでも伊丹と池田が近代の酒産業を飛躍させ、江戸積みの酒、すなわち「下り酒」の名産として大いに栄えました。

清酒を世に広めた伊丹酒 3つの技術革新

江戸の町民の好みである辛口のお酒であったことや近衛家の庇護によるブランドの向上といったことが、伊丹の酒が流行った要因として挙げられます。しかし、それ以上に注目したいのは「近代的な産業として酒造技術が向上したこと」「生産性を高める道具が開発されたこと」「酒造りの専門技術集団の組織化されたこと」など技術的なことが総合的にもたらせたことに尽きます。

それまで、秋の彼岸のころから仕込まれていた酒造りを真冬の寒仕込みに集中して行うことで、酒質が大きく向上し、良質のお酒をより安く大量に生産する事が可能になりました。

江戸では徳川幕府の開府以来人口が増え続け、近代都市として大きく成長していました。1657年の明暦の大火以来、江戸の町の復興のために各地から、大工や左官屋など職人が集まり、町のあちこちに食べもの屋が並び始め、外食産業が盛んになるとともに酒の需要も大きくなっていきました。その重要に応える供給力を持った酒造地が伊丹やその後、勃興する灘だったのです。伊丹の酒造技術の革新による生産向上が、江戸での酒の需要拡大につながり江戸での繁栄があればこそ伊丹の酒造産業が発展したともいえます。

酒造道具の発達という点でいうと、それまで甕(かめ)で仕込まれていたお酒が木製の樽や桶などで造られるようになり、大量生産が可能になりました。秦氏の築いた猪名川の河川交通が、その木材である杉の木を用いた酒造道具の開発や樽廻船の運搬に繋がったのではないかと考えられています。また伊丹出の酒造りを支えた丹波杜氏の存在も忘れてはいけません。先ほど案内した寒造りが酒造りの中心となると、酒造家はどうしても短い期間に大量の仕込みを集中して行わなければなりません。つまりより多くの人手と高い技術、過酷な労働に耐えうる職人が求められるようになってきたのです。

そこで、台頭してきたのが、丹波から出稼ぎでやってきた農家の集団でありました。

厳しい冬季期間の酒造りの様子は、酒造り唄から読み解くことができます。

“丹波通い 路雪降り積もり 家で妻子が泣いている

 酒屋白日 乞食よりも劣り 乞食や夜も寝る楽もする“

「蔵で考えるのはいつも国に残した妻子のことばかり 酒屋勤めするくらいなら乞食の方が気楽でええわい」そんな嘆きの声が聞こえてきそうな寂しい内容の歌詞です。昔の手作法の酒造りの厳しさや労働条件の過酷な中での生活は、機械化した現在の酒造現場からは想像もつかないものがあるでしょう。

それ以前の一般庶民が口にするお酒と言えば、農家で仕込まれる濁り酒で、僧坊酒などの澄み酒は、大変高価で貴族や武家などの上流階級にしか行き渡らないか正月や祝い事など、ハレの日にのみ飲まれる代物でした。こうした背景から生まれた伊丹の酒は、天下万民のための初めての酒で、庶民の大衆酒として爆発的に広まっていったことは想像できます。

・・・乾杯!

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