MENU

下り酒

戸でどうして下り酒といわれる上方の酒が尊重されるようになったのか、江戸近郊には酒蔵はなかったのか。そのへんを掘り下げてみたいと思います。

時、江戸近辺で造られていたお酒は、醸造技術がまだ進んでなく濁酒(どぶろく)に近いものでありました。そこに上方で洗練された諸白(もろはく清酒)が生産され、このお酒が江戸の送られ大いにもてはやされました。これら伊丹など、上方から運ばれた酒を「下り酒」と言いました。

下り酒は、江戸時代前期には伊丹酒、池田酒が後期には灘酒が増え、江戸の酒重要八割を供給していました。江戸に酒樽を積んだ樽廻船で上方から江戸に運ばれた「下り酒」は海路波に揺らされて行くうちに杉樽の香りが酒に移り芳香な清酒になったと言われています。

○酒造りにおける米・水・技術が揃った背景に注目したい!

江戸時代の銘酒処だった摂津の伊丹、池田、灘等の酒造地帯は、良質の米、ミネラル豊富な水、丹波杜氏による高度な酒造りの技術と三拍子揃い、上質な酒を生産できました。さらに、江戸まで酒を長時間樽詰め輸送することで、杉香が移り熟成して酒質はさらに向上し、江戸での人気を集めました。特に灘は、水車精米と寒仕込み高品質の酒を大量生産できるようになり、江戸の莫大な需要に応えたのです。内陸部の池田、伊丹に対し灘が沿岸部だったことで、船に直接荷積みして出荷できたことも、後期に灘が台頭してきた大きな要因に挙げられます。

○江戸のお酒は下り酒に勝てなかった!

下り酒に押され、最後まで主役の座に付けなかった江戸の地酒、隅田川、宮戸川、都鳥、日立、下総、鬼怒川筋、荒川筋などがあった。

○くだらない の語源!

江戸時代(前期)は酒に限らず、まだ上方のほうが文化、技術に優れている物が多かった、こうした製品などは上方から江戸に下ったので、優れている物や高級品を「下りもの」そうでない地物などを「下らない」というようになった。江戸時代(後期)には、江戸の文化や製品は京坂に遅れを取らなくなったが、酒だけは最後まで「下り酒」にかなわなかったようです。

・・・乾杯!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次